みえ≠フ法灯

浄土真宗親鸞会 三重

盛大な葬式法事は、亡き父母の孝養になるのか?

前ページからのつづき)
 世間の親たちが、その子供たちに望み求めることは種々様々だと思いますが、せんじ詰めたところ、「子供たちよ正しく生きてくれ、真の幸福者になってもらいたい」と望んでいるのではないでしょうか。
 それはあえて、亡くなった先祖を呼び出して尋ねてみるまでもなく、私たちが子供に何を望み願っているかを考えてみればすぐ分かります。

 私たちが私たちの子孫に切願することはただ一つ、「正しく生きよ、幸福になれかし」ということしかありません。
 このことが明らかになれば、私たちが正しく生き抜き、絶対の幸福になることが最も親に対して、先祖に対しての恩返しということになります。

 では、正しく生き抜くにはどうすればよいか。真実の幸福を得るにはどうすればよいのか。

 釈尊は、その道は本師本仏の阿弥陀仏の本願を聞信する、一本道しかないことを生涯教え続けていかれました。
 阿弥陀仏の絶対の救いにあずかり、日本晴れの大安心、死んでよし生きてよしの大満足になって、苦悩渦巻く人生を光明の広海と転じて、明るく強く、たくましく生き抜かせていただける身になることが、最も親や先祖の恩に報いることになるのです。

 結論を申しますと、あなたが本気に親の恩に感泣し、その報謝を思われるならば、一日も早く片時も急いで阿弥陀仏の絶対の救済(信心決定)にあずかることです。

 これ以上の先祖に対する供養も、親に対するご恩返しも絶対にありません。
 この最も大切な信心決定ということを忘れて、葬式や法事ばかりに力を入れているのは愚の骨頂です。
「親鸞は父母孝養のために一遍にても、念仏申したること未だ候わず」
の聖語をよくよく味わっていただきたいと思います。

トップに戻る

読経はだれのため?

「葬式や法事の読経は死人のためになる」というのが常識になっています。
 しかし、これを迷信と徹底打破なされたのが、実に仏教を説かれた釈尊なのです。
 なぜ迷信といわれるのか。それは、お経がどのようにして成立したかを知れば明らかでしょう。
 お経とは、釈尊が、苦しみ悩む生きた人間を幸せにするためになされた説法を、弟子たちが後世の人にと書き残したものです。死人になされた説法は一つもありません。生きている時でさえ聞けないものが死んで聞けるはずがないのです。

 では葬式や法事、読経は全く無意味なのかというと、勤める人の心構えにかかってきます。
 厳粛な葬式を縁に、無常を感じて聞法すれば、極めて有り難い勝縁になります。ただ読経のみで終わっては所詮がないでしょう。
 お経に説かれている真実を聞かせていただき、ますます信心決定せねばならぬことを知らされてこそ意味があるのです。

 

浄土真宗親鸞会 三重 親鸞学徒のつどい